リボンブログ【つぶやき時々アフィリエイト】

日常生活での出来事の中で得る学びについてブロってます。ちょっことだけMY BESTも含みます。

【不感症】何がしたいのか自分でも分からない

「あなたは今何がしたいですか?」「あなたは何が食べたいですか?」「あなたは何がほしいですか?」「未来の自分は何をしていますか?」「あなたの夢は?」
と、問いかけた時にあなたは、すぐに答えることができますか?

 

当時の私はと言うと・・・その問いに対して焦点が合わず、鈍いような感覚が心を漂い、即答ができませんでした。
そもそも、その日一日の生活のなかで出てくるWICH?でさえ、「コレがいい!」という答えは出てきませんでした。
何を食べたいのか、どんな服を着たいのか、どんな髪型がしたいのか、どこに遊びに行きたいのか・・・。
仕事中のランチでは、自分の嗜好品ではなく、誰かが指定したものに便乗するか、そこにあった物を食べたり、
朝起きて、仕事に出かけるときに着る服は、制服指定がありがたかったですし、休日などは、誘いがなければ自分から誘うことはなく、連れがいれば、相手が行きたいとこに合わす感じです。自分で決めて行動することが、苦手だったのかもしれません。当時、決断できる唯一の気持ちは、「自分が好き」と言える男性に対しての感情があることぐらいでした。この感情は、私にとって本当に救いの「感情」でした。
誰でもいいわけではなく、それだけは、自分が心から好きと思える人と交際をしていました。今から考えても、本当にこの感情しかなかったと思います。

突然に自身がこうなったわけではありません。
きっとこうなった経緯はあるはずです。実体験も含めお話ししていきます。

不感症とは?それを作り上げる環境

ここで言う「不感症」とは「社会学的不感症」です。何らかの事象に対して、何らかの感情的な反応もわかないことを指します。また、心理学的な面から見ると、様々な 精神疾患 の結果であったり、あるいは 発達障害 の結果であったり、または性格面での問題であったりと、一括りに出来ない要素が多いそうです。

私は、幼いころから人と違う感性をもっていることは、子ども心に分かっていたような気もします。それとは別に、私がこうしたいと母に言えば、いつも返ってくる言葉は、「あぶないからだめ」「本当にできるの?」と否定的な返事ばかりでした。決して私に対して愛情がなかったわけではなく、ただ単に母は、日常生活と育児に疲れていたのです。私を産んだ当時の母37歳、父47歳でした。今の時代では普通に出産適齢期ですが、私の時代は稀でした。私を妊娠中の母は、膨らんでくるお腹を割烹着エプロンを着て隠していたそうです。私が生まれてからは、父に対して「孫を連れてどこにお出かけですか?」と知り合いなどにからかわれては、顔を真っ赤にして激怒する感じだったと聞いた記憶があります。

これは、親の愛情?というのでしょうか。子どもの頃に着る服は、ほぼ母の手作りでした。(私が好きで着たい服ではない)保育園のお弁当も手作りでした。でも、私の好きなおかずは入っておらず、健康面によい物がメインでした。自営をしていたので、両親は土日関係なく仕事をしていました。母は日曜日だけが唯一の休みだったので、趣味の服作りに没頭していました。休みになると、日当たりのよい部屋で、けたたましく走るミシンの音が響いていたのを今でも耳に残っています。当時の母は、服飾関係の仕事に就きたかったようです。今で言うアパレル関係ですね。やりたくもない自営業に付き合わされて、うんざりしていたのでしょう。77歳になった母は今でも言います。「週一日の休みに、あなたたちの服を作るのが唯一の楽しみだった」と。私の兄弟は、私含め三人兄弟です。私はその末っ子です。兄たちも、母に柄シャツを作ってもらって着ている写真を見たことがあります。そうやって幼いころから私は、母が言うものが絶対で、自分の意図することはほとんど無視されて育ったような気がします。しかし、今でもそのことで母に嫌味を言ったり、なじったりすることは全くありません。(軽く笑い話としては言いますが)何故かと言うとそれが、私が選んだ人生の学びだからです。その時は、まだこれが私の人生を変える大きな種になるとは、思ってもいませんでした。

私は、多感な時期に平行して、人付き合いが苦手でした。そう感じるまでは、社交的で誰とでも話せ、行動的でした。それが小学高学年にもなると、人の感情や空気を感じ取ってしまう直感力が冴えわたり、余計に自分を苦しめていくのでした。だからこそ「思考を遮断=気持ちをころす」を繰り返した末、人前での自分とそうでない自分をつくり、少しずつ不感症を築き上げてきたのだと思います。

丁度、私が最初の出産を経験した頃でしょうか。こんな私にも新しい命がやっとの思いで授かりました。しかし、私が人を育てるということに対して不安しかなく、何より親である私が、一番不安定でした。育児書を読んだり、でも、どこか本能的に育児に対して理解していたり、なんとなくですが、泣いている我が子の本意が読み取れたり、でも正解ではない気がしていて、悩んでいました。

ちょうど子どもが3歳になったころ、育児や精神的に不安定な自分にも辟易していたころです。不思議な力をもったヒーラーの方に、セッションをしていただきました。

その方のセッションは、静かな部屋でテーブルと椅子のある席に対面に座り、自身の目を閉じて、その方が誘導する
ことに耳を傾けるだけでいいのです。それだけで、心をクリアにできるでそうで、半信半疑でしたが、自分がなぜこんなにも不安定でいるのか知るためにも、また心の足かせを外したい一心でセッションを受けてみることにしました。

人生初のセッション体験

私はヒーラーに誘導されるがままに、目を閉じて私の両手を、覆いかぶすようにヒーラーの両手で触れられていました。すると、目の前に凄く大きな光が現れ始めます。その光は、ドンドン大きくなり「この光の大きさや見ている感覚を覚えておいてね」とヒーラーに言われ、そのまま場面が変わりました。

「今あなたはどこにいる?」                                 私「真っ暗い箱のようなところに体操座りしています」
「臭いとかする?」
私「墨の臭いがします。少し湿っているような感じもします。」
「そう。じゃ、その箱から出て外をのぞける?」
私「やってみます。出ました。」
「外はどんな様子?」
私は、恐る恐る窓の外を除きました。
私「おじいさんと子ども3人で楽しそうに縄跳びで遊んでいます。」
「楽しそうだね。じゃ、あなたも、外に出ていこうか?」


私は言われるがままに外に出ました。辺りは森で、子どもたちが遊んでいる姿を横目に森の中を歩いていました。すると、足元に断崖絶壁が現れました。崖の先は真っ暗です。


私「崖になっていてこれ以上先には進めません。」
「そうだね。その崖に飛び込める?怖いよね?でも大丈夫だから勇気を出して飛んでみて!」
私の目の前で起きていることは、頭の中で起こっていることと理解しているのですが、目の前にある、先が見えない崖を見下ろして、とてつもない怖さをいだいていました。見たこともない深い深い崖を目下に、足が震え出します。

これがまた驚くことに、セッションを受けている私の足が本当に震えているのです。その時、ヒールのある靴を履いていたのですが、ヒール部分がテーブルの脚に当たって音が出るくらいブルブルと震えていたのです。

私「無理です。飛べない。」と泣きだします。
「時間はあるから、崖のギリギリ手前まで歩いていける?」
私「はい・・・足が震えてもう立つこともできません。無理です。」

深い崖を目下にしゃがみ込み号泣する私に、もう先に進むことは不可能だと思ったこの方は

「じゃ、飛び込まなくていいから来た道を帰ってみてくれる?」
その言葉に安堵した私は涙を拭きながら、また森の中を歩きだしました。

すると場面が変わったのか、
ベッドで休んで横になり、部屋の窓から外を眺める金色の長い髪をした少女になっている自分がいました。先ほどの森の中をいた私は、着物を着た日本人の幼い女の子だったのですが、次は、年齢も人種も変わっていました。

「何がみえる?」
私「窓とベッドしかない部屋に寝ています」
「あなたは病気なの?」
私「多分そうだと思います。昼間なのにパジャマを着ていますし、外では元気にボールを蹴ってる男の子が見えます」
「あなたは、病気を患っていて、外で元気よく遊べないみたいね。お母さんがあなたをずっと看病してくれているわ」

そう言われると、グーンとその感覚になってきて、「私はお母さんなしでは生きていけない」「お母さんお母さん・・・」と心の中が鬱蒼としてくるのでした

この少女の感覚が、私の心にすり替わり始めたころ自分の心と少女の心が徐々にリンクしていくが瞬間に、時空を超えて地球と言う存在に生まれることや人として存在している感覚が、客観視されて見下ろして見ているようで不思議な感覚で驚きました。そして、ベッド上から外で楽しそうにボールを蹴っている親子を眺めているのでした。

 

と、ここで場面がまた変わりました。
家々が立ち並ぶ夜更けの道に彷徨い歩いていました。
月明かりだけを頼りに、あてもなく歩いていました。
少し歩くと、セッション最初で見た光が現れ始めました。
気持ちよくて心地よくて、ずっとこの光に包まれていたいと思いながら、溢れんばかりの光を胸の中で抱きしめていました。

「気持ちいいね~。辺りを振り返ってもらえるかな?」
私は振り返ると、小さな光の数が増え始め無数にある光が私を取り囲みはじめました。
「この小さな光は、あなたに助けてほしくて待っている光たちです。そしてあなたが抱きしめている光はあなた自身です。」

すると、星よりも無数に散りばめられた光たちは、一瞬にして光を放つのをやめました。辺りは真っ暗です。光っているのは、自分が抱きしめている光だけです。次第に私が抱いている光も小さくしぼんでいきます。

私「あのぅ!光が小さくなっていきます」
「そう。その光の感覚を覚えておいてね。その光はいつでもあなたの中にあるし、いつでも感じることができるのよ」

光はどんどん小さくなり、私の胸の中に納まり辺りが真っ暗になったところでセッションは終了しました。

そして目を開けて、現実の世界にもどってきました。
泣きすぎて、化粧がはげまくりです。しかも照明が明るいし、顔がボロボロでとても恥ずかしかったのを覚えています。30分くらいの出来事でした。セッション中に見た映像の説明をして下さいました。

セッション中に見た着物を着た女の子と外国人少女は、過去の私自身であることを告げられました。(過去世に行っていた模様)
また、真っ暗い箱の中から外の様子を伺うのは、今の自分であること崖から飛び込めなかったのは、今の心境に勇気が持てない事で飛び込めないでいる状態だったそうです。出来ればあの中で、飛んで欲しかったと言われました。病気を患ってお母さんなしでは生きていけない気持ちが、今の自分にも繋がってしまい、現実世界でもお母さんとの離れが不安や心配に繋がっていると言われました。前者も後者もそれは、過去の自分の出来事であり、今を生きるあなたの事ではないので、もっと勇気をもちなさい。という事でした。

最後に見た小さな光たちは、あなたが過去に助けてきた光たちです。
でもあなたは、助けてあげた光たちから大変ショックな事をされて、深く傷つきました。あれだけ大好きだった人間にさえも、すべてに心を閉ざし、何も信じれるものがなくなりました。孤独になり、あなたは、真っ暗な殻に閉じこもることに決めたようです。リボンさん、もう一度信用してみてはいかがですか?人が信用できませんよね?リアルタイムでもあなたは、現実世界でも境界線を引いて生きています。

今も多くの光があなたの助けを待っているのです。
勿論、助けることも大切ですが、あなたの中にあるあの大きな光を決して忘れてはいけません。あなたが感じようと思えば、いつでもあなたに応えてくれます。因みに今感じてみて?と言われました。                                        私はどうすればよいのか分からず、先ほど見た感覚を辿りながら、頭と心の中で念じてみました。すると、胸の辺りが、カーっと熱くなり始めてきました。
「胸が熱いです」と言うと、それが反応してくれてるサインです。大事にして下さいね。それから最後に、あなたは不感症傾向にあるかもしれません。
あなたの生きている世界は、先ほど見てきた薄暗い、じめじめした、狭い箱の中ではないはずです。もっと自由に生きていいのです。もっとダンスを踊るようにはしゃいでいいのです。今からです。頑張ってくださいね。

ヒーラーによるセッション、説明は終わりました。

本当は、あの崖を飛び込めば、ミッションクリアだったのでしょう。
やはり、勇気がでなかったです。映像の中の自分は、本当の自分じゃないと理解しているのに飛べないのです。飛び込めなかったことに対して、セッションから数十年も経っている今でも悔やまれます。セッションが終わったら、その感覚が理解できるのに、セッション中はできなかったからです。

また、セッション中に目を閉じて映る画は人によって違うらしく、霊感が強い人ほど映像が良く見えるそうです。私の場合は、筆で描いたようなイラストが自分が行動していることもあれば、自分自身を客観的に見ている時もあり、場面によって見え方は様々でした。

セッション後は、なんとも爽快な気分でした。たくさん泣いたことも、心の掃除になったのだと思います。その時には、淡々と説明を受けたので、うまく咀嚼できなかったところもあるのかもしれません。翌日、また一週間後と日ごとに、セッション中に出てきたシーンを思い浮かべては、時空を超えれたことに感動したり、自分は何者だったのか、今現世を生きている自分は何のために生まれてきたのかと疑問に思うことが、増え始めたことも事実でした。でも、最高値の自分・・・魂の輝きも見れたような気がしたので、やってもらってよかったと思います。

挑戦できる人は9:1の気持ち

私が経験してきて思うのが、今やりたいことを我慢し続けると、挑戦することに億劫になってしまうということです。また、やりたいと思うことに対して「答え」やら「着地点」を想定しないと挑戦できず頭デッカチな人になってしまい、やはり自分にはできないと挑戦を諦めてしまうのです。例えば、好きな人に告白をしようとしていて、結果がNOだったら、立ち直れる自信があるのか、今後その人に対してどういう風に接するべきなのか、もう不安なこと事を上げれば、切りがありません。挑戦して、乗り越えた先の自分は、「キラキラした自分になっているのだ」という創造の気持ちを9割持ってください。そして、着地点が、「もしも・・・」と不安要素で思い固めてしまうことが、1割ほど優先されてしまうくらいで考えましょう。

たとえ、挑戦して結果が伴わなくてもいいのです。そこからが、またあなたのスタートラインであり、学びなのです。悲観せず、周りの目は気にせず、あなたの人生の指揮者はあなた自身であるということに誇りを持ってください。歳を重ねればその分、エネルギーも衰えるので、自然と諦め癖が達者になります。最終的に「やっぱり自分の人生は我慢の連続だったなぁ」と、してこなかった自分に嘘をつき始め、そして慰めるのです。そして、ひたすらに後悔の波が押し寄せてくるのです。それは、全くの誤解です。「我慢」ではなく、できたのに「自分がしてこなかった」だけなのです。または「出来る勇気がなかった」のです。自分の中で、できない理由探しが、勝ってしまっただけのことです。

今すぐに、頭デッカチは卒業して、(できる範囲で)何事も柔軟な心で対応していきましょう。

やりたい事リストでベクトルを合わす

頭デッカチになりすぎると、挑戦する事に対して、頭の中で様々なパターンを想定して、結果をだすことを、組み立て過ぎてしまうのです。その度に、心や脳は疲れてしまい、「めんどくさい」という選択になったり、また新しい情報に感化されては、放置されそのまま忘れてしまうのです。なので私は、やりたい事リストをつくるようにしました。心の中で「あ!いいかも」と思う気持ちになったことを、リストに書き留めます。それをいつでも、目に付くところに貼っておきます。するとベクトルがそちらに合い出し、欲しい情報だったりが、自然に目に飛び込んできたり、拾ったりしだします。

それは、目に付くところに貼っているだけで、見るたびに頭の中にやりたい事が巡るのです。するとあなたの意識がそれに集中しだすのです。もうこうなれば、あなたの心はワクワクで大忙しになります。

片っ端からとりかかる、そして成功してもしなくても、行動に移せたらやったこととしてチェック印をつけていくようにしましょう。またどんな些細な「あ!」でもいいのです。例えば、私は最近庭の草引きに力をいれているのですが、庭が殺風景であることに気づいたのです。また何かを植えれば草引きが減るのかもしれないと思い、新しく植える植物について創造し始めるのです。どういう風な植物がここには適していて、また景観的にどれくらいの高さの植物がいいのかなど、庭を見渡しながら創造するのです。するとピンと来たのが「山野草」でした。リストに山野草と書きました。植えるポイントを想像しながら、山野草についてネットで調べます。すると今度は、現物を見てみたくなるのです。次にグーグルマップで「山野草販売」と打つと、ヒット件数がいくつか上がります。そして現地に向かい植物を手に取ってみたり、オーナーさんに質問したりします。そして、自宅に戻り、買って来た山野草を植えると、ご近所さんに声をかけられ、山野草についてオーナーさんから聞いたことなども絡ませながら、覚えてきたことをそこで会話(アウトプット)します。すると、ご近所さんから褒められ、さらに山野草についてもっと調べてみたくなるのです。

hb.afl.rakuten.co.jp

まとめ

いつの間にか、小さな「あ!」だったはずが、自分を中心に大きな波紋になっていっていることに気づくでしょう。同時にあなたの心は、ワクワク楽しく発展していくのです。なので、どんなに些細な「あ!これいいかも」や「あ!やってみたい」を書き留めて置くことをおススメします。そして、それをいつでも目に入れるようにすることも大事です。そうやって自分自身の心の声に、耳を傾けてあげてください。些細な心の声をスルーしないであげて下さい。あなたにしかつくれない波紋を、たくさん育てていきましょう。

 

 

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