【幸せのサイン】隠されたスピリチュアルメッセージ
【幸せのサイン】は全二回ありますので、こちらもよければ読んでみて下さい。なにかの気づきになれば幸いです。
物が紛失することから教えてくれているメッセージ
私は若い時からよく失くしてしまっていたものがあります。それは、イヤリングです。それも決まってお気に入りのものなのです。いつも、気づけば片方なくなっているのです。物によっては、片方だけつけていても存在感のあるものは使い続けるのですが、小ぶりなものは片方だけだとバランスがおかしくなるので、悲しいですが捨てるはめになります。ある時も同じようなことが起こり耳たぶを触りながら悲しんでいると、同行していた方に「それってあなたの難が去ったのよ。だからイヤリングを失くしただけでラッキーなのよ」と笑顔で言って下さいました。私も何だかその言葉に妙に納得してしまい、それで難が去ってくれたのならラッキーだな程度に思うようになりました。
またこんな伝えを聞いたことがあります。それは「邪気払い」です。私は元々憑依体質なので、人が多いところや車の往来が激しい場所は苦手です。人によっては圧当たりを受けてしまうこともあるため、心が酷く疲れます。そこから考えると確かに私が大抵失くす日は、結婚式や入学式等の人が集まる時なのです。
私が体験から学んだメッセージ
その日も息子の入学式で 高価なイヤリング を身に着けていていました。母親から譲り受けたイヤリングだったので、大切な日にしかつけませんでした。その日は何故か朝から失くす予感がしており、入学式が終わると直ぐに外し鞄に仕舞いました。そして帰宅し、着替えを済ませイヤリングを仕舞ったはずの鞄の中を探すと見当たらないのです。悲嘆しながらも、仕舞ったところを何度も見返すのですがどこにもありません。入学式に持っていった鞄は、普段使いの鞄とは違うので、他を探すのは見当違いな気もしましたが、念のため普段使いの鞄も確認しました。母から貰った大事なイヤリングであり、高価なものだったので大切な日にしかつけないようにしていたのに・・・そこまで大切に使ってきたのに・・・こんなことがおこるなんて大変なショックでした。「さぞ大きな邪気が払えたのではないか」と悲憤しておりました。それからも日を置いては、何度も探しましたが出てきてはくれず、徐々に気持ちも落ち着き、失くしてしまったものはもう仕方ないかと諦めがつくようになったのが、紛失してから三か月を過ぎたころでした。
その日突然「ここに入ってる」と頭に降ってきたのです。(内容はいずれも頭に降ってくることは日常的にあります)そこは、以前引き出し事引っ張りだし、子どもと一緒に隅々まで確認したところでした。そこの引き出しを開けて、ジュエリーボックスを開けてみると、目を疑う光景が・・・きちんと揃えてあるイヤリングが存在しているのです。もうびっくりで、時空までも疑った瞬間でした。いつもそうなのですが、あの時のショックを無駄に思うより、 出てきたことの嬉しさをひとしおに感じてしまいます。きっとこのことは私が抱いている「執着心を捨てなさい」というメッセージだったと感じています。
その発想でいくと次のような体験もしました。私が妊活をしていた頃もそうでした。自然妊娠で4回の流産を繰り返し「不育症」と診断を受けました。不育症とは、受精卵が子宮で着床するのですが、そこから元気に育ちにくいというものです。一番酷く辛かった流産は、妊娠が分かり13週目に入った頃でした。その間も安静にしないといけない状態でしたが、同居する実母はそれを許してくれず、妊婦が横になって休んでいることを絶対悪だと決めつけているような人でしたから、安静には休んでいられませんでした。また、妊婦がつわりや体が辛いのは、母親になるための試練だと考えているような親でした。なので横になって休むことは出来ず、お腹の張りや鈍痛を感じながらの生活をしていました。ミンミンゼミが勢いよく鳴いているお盆最終日です。人生において味わったことのない腹痛が私を襲います。急いでトイレへ行きました。そこから直ぐに陣痛のようないきみが始まり、自分の体で起こっていることに理解がついていかず、パニックを起こしていました。痛さで目も開けていられず、便座に座っていることもままならず、壁に上半身を預けて時が過ぎるのを耐えました。すると三回目のいきみが来たときでした。テニスボールくらいの塊がゆっくり流れ出たのです。
その瞬間に全てを悟りました―――。また、我が子を育てることができなかったと・・・。
そして、病院で最終処置をしてもらい、帰りの車の中でのことでした。「もういい。私、赤ちゃんはいらない。」と心にすっと落ちてきたのです。やせ我慢でも、言い聞かせたわけでもなく、「赤ちゃんは授かればそれでいいし、そうでなければもう一生いい」という思いが、頭から心へ浸透していったのです。これは、赤ちゃんがほしいという思いを手放した瞬間でした。と同時に涙が溢れ出たのを覚えています。
すると、数か月後にまた生理がこなくなったのですが、婦人科系のことで悩むのは辟易していたのだと思います。「生理が来なくなったくらいもういいや。ほっておこう」と思っていました。すると、つわりが始まり妊娠していることが分かったのです。つわりは酷く、運転中にも関わらず嘔吐してしまう程で、片手にエチケット袋をもって赤信号で止まれば嘔吐するを繰り返し通勤していました。このつわりのおかげで一か月で体重が10㎏も落ちてしまったり、嘔吐しすぎるあまり点滴が必要になるときもありました。そんな辛いつわりがあるのは、赤ちゃんが元気に育ってくれている証だと思いながら、ひたすら8ヵ月まで耐えたのを今でも覚えています。その後、無事出産までに至り元気な産声を上げて、この世に産まれてくれました。
まとめ
執着を手放した瞬間に、それはあなたの内に入ってくるようになっているように思います。なぜか固執していた気持ちを手放すと、不思議と内に入って来るのです。そこに湧く感情としては、「よかった、ありがとう」の気持ちしかなく、それ以上でも以下でもないものです。一喜一憂ではなく、いつも平常心の中に存在するような心地です。これを忘れてはいけませんね。
手には持てないものを手放すって難しいです。ずっと大切に温めてきた思いだったり、 固定観念があり続け優先するときもあります。 簡単に「今日から要らないです」「私には不要です」って思えないですよね。でも、私の場合は、何度も何度も「諦めようかな」「辛い」「悲しい」「このままじゃいけないんだろうな」「私の何がいけないの」っていう場面に遭遇し感情を揺さぶられて、ごちゃごちゃした感情の中で、最終的に「手放そう」という発想に至ります。要はその程度の「思い」だったのか・・・と思う時もありますが・・・。(ここで大事なのは、「諦めた」のではなく「手放す」)それはそれで、人人によってミッションが違いますし、手放すことで、パンパンに思いが詰まったポケットが空っぽになるだけの話なのです。とってもシンプルなことなのですがここで大切なのが、「諦める」や「思い込む」「自身に言い聞かせる」のではなく自分自身で納得した上で、手放す。自分自身で自分を縛ったり、決めつけたりしないように、心を解放してあげて下さい。
あなたは最初から一人で自由に生まれてきたのですから
自由に感じて生きていいのです。
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【幸せのサイン】物が割れる・壊れるに隠されたスピリチュアルメッセージ
日ごろからよく使っている食器などが割れてしまったり、普段から愛用しているものが突然壊れてしまったり、また失くしてしまったりした時、とても残念な気持ちになりますよね。思い入れのある物なら尚の事でしょう。一方、「消耗品だから壊れて当たり前~」という考えの人もいるのかもしれません。しかし、現実に起こる事に関して意味のないことはないと思っています。何かしらのサインを送っていることだってあるのかもしれませんよ。実は、そのタイミングだからこそのサインもあるのかもしれません。
全てにおいて、偶然はなく必然しかない世界であなたにとって素敵なスピリチュアルメッセージをお受け取り下さい。
二つの割れ方にあるメッセージ
物が割れるパターンには、二つの割れ方があります。まず、一つ目は粉々に割れてしまう場合です。例えば、食器を洗っていて洗剤で手が滑ってしまい、お皿やコップを落として割ってしまったとします。再生不能までに粉々に割れてしまったとします。この場合のメッセージは、「今のあなたはとてもイライラしている、もう少し心にゆとりを持ちましょう」と教えてくれています。これがきっかで目が覚める場合もあると思いますが、今の波動ペースにストップをかけてくれています。そういう場合は、深呼吸をして口角を上げてみたり、心から笑顔になれることができなくても、形だけ笑顔を心がけて下さい。すると自然に、ペースがゆとりあるペースに戻っていきます。ここで間違っても、舌打ちなどしないようにしましょう。たとえしてしまっても直ぐに笑顔をつくれば問題はないでしょう。
私も育児がワンオペの時は、よくお皿を割っていました。その時は、育児や家事をこなすことに精一杯なので、自分がイライラしているなんて気づくはずもありませんでした。とにかく時間に追われていましたし、私の言うことを全く聞いてくれない子どもと自身の睡眠不足との格闘が続く毎日でした。そのおかげもあってか、要領だけはよくなったと思います。
では、二つ目です。例えば、茶わんや陶器のコップなどを落としてしまい割れてしまった時に、綺麗に真っ二つに割れた場合です。小さな破片も飛びますが、そこは気にしないでください。明らかに粉々ではなく、二つや三つに割れることがあります。これは「二つに増える」と言い、縁起が良いことなのです。なので、愛用品が割れて悲しい思いをするかもしれませんが、「良いことが増える」「良い知らせが来る」と良いメッセージとして捉えてください。
補足ですが、①長い期間ネガティブな状況下続き、その時に物が二つに割れる場合がありますが、それは、「終わり」を意味します。つまりネガティブは過ぎ去ったというサインを示してくれています。その場合は気持ちを切り替え前向きに行動しましょう。②アクセサリー類でまれに起こる事があります。それは、ネックレスやブレスレットが突然に不可抗力もなく切れたりすることです。これは稀なのですが、身につけている方のエネルギーが高い時などに突然切れることがあります。
愛用品が壊れることからわかるメッセージ
愛用品ということは、あなたが日頃からとても大事に扱い、大切に眺めながらそれを使っていると思います。その度に、あなたの念がとても強く入っているため分身や解放の意味ともとれるメッセージを送ってくれていることもあります。
例えば、このような話があります。私の知り合いでとても信心深い方がおられました。毎朝お仏壇で亡くなった家族に対して、お詫びのつもりでお経を唱えておられました。その際にいつも身につけておられた数珠が、その朝拝んでいる最中に突然切れたそうです。一瞬なにが起こったのか理解できませんでしたが、数珠を手にして拝んでいただけで、強く引っぱったわけでもないのに糸が切れるなんてということがあるのかと、とても不思議に思われたそうです。その方は、すぐに入檀しているご住職にその話をされたそうです。するとご住職は「そうですか。それはもうあなたの気持ちは充分伝わっているのでしょう。そんなに自分を責めなくていいよと仰っているのではないですか」と言われたそうです。その言葉を聞いて、まるで亡くなった家族がそう言ってくれているかのように感じ、涙が溢れその方と亡くなられた家族との間にあった心のシコリもスーッと流れていったそうです。
私たちからすれば「壊れる」ことに対しては、縁起がよくないと発想しがちですが、スピリチュアルメッセージとしては、プラスのサインを送ってくれていることが多いです。
また、次のお話は、身代わりになってくれたのではないのかと不思議に思うような体験をされたお話です。
ある男性の若い頃のお話です。男性は30代の頃バスの運転手をしていました。その日は、ある団体客のツアーバスとして運転をしていたそうで、いつものように踏切手前で一旦停止をしていると、前方から大きく対向車線からはみ出した車が自分のバスに突っ込んできたそうです。男性は、一旦停止中で動きようがなくどうすることもできなかったそうで、思わず運転席に座ったままの状態で体を丸くしてハンドル部分にかがみました。そして、物凄い音とともにバスと車は一瞬に大破しました。ゆっくり目を開けると惨状の光景に驚いたそうです。ぶつかった車体のボンネットがぐにゃりと曲がり押しつぶされており、その酷さに体の震えが止まらなったそうです。鉄の塊の変形した様は、事故の衝撃の凄さを表していました。幸いにも自分の身に被害はなく乗客の無事も確認し、慌ててバスの外に出たそうです。見るとバスのフロント部分は大破しており、自分もあと数センチずれていたら危なかったそうです。そのまま怖さに震えながらもバスの運転席側に回ってみると、運転席の小窓のところに、以前買って飾っておいたお札があるのですが、それが見事に真っ二つに割れていたそうです。 運転している時にも視界に入る場所に飾っておいたので、この事故後に割れたのは確かであり、自分のいた付近だったのでガラスの破片が当たって分厚いお札が割れたとは考えにくいそうです。 思わず「自分の身代わりになってくれたのだろうか、この度は本当に助けてもらった」と感じたそうです。このお話をして下さった時が80歳代でしたが、「こんな不思議な体験は、一生にあれだけだった。今でも鮮明に覚えているな~」と感慨深げにお話しくださいました。
割れる道理がないお札がきれいに割れたということは、やはり神様がお命を救って下さったのかなと考えてしまいます。また、不思議な体験をすると、何故か鮮明に記憶に残っているのも事実です。皆さんの記憶の片隅にもありませんか?「あれってもしかしたら?」というような不思議な体験…きっと何らかの力が働きあなたを救って下さったことに感謝ですね。
紛失したものがでてくるおまじない
物がなくなってしまい、それが早く出てきてほしいときありませんか。例えば、ハサミや携帯電話、印鑑などです。そんな時は、以下の言葉を三回唱えて下さい。
必ず、三回唱えて下さい。お探し物が直ぐに出てくるといいですね。
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【不感症】何がしたいのか自分でも分からない
「あなたは今何がしたいですか?」「あなたは何が食べたいですか?」「あなたは何がほしいですか?」「未来の自分は何をしていますか?」「あなたの夢は?」
と、問いかけた時にあなたは、すぐに答えることができますか?
当時の私はと言うと・・・その問いに対して焦点が合わず、鈍いような感覚が心を漂い、即答ができませんでした。
そもそも、その日一日の生活のなかで出てくるWICH?でさえ、「コレがいい!」という答えは出てきませんでした。
何を食べたいのか、どんな服を着たいのか、どんな髪型がしたいのか、どこに遊びに行きたいのか・・・。
仕事中のランチでは、自分の嗜好品ではなく、誰かが指定したものに便乗するか、そこにあった物を食べたり、
朝起きて、仕事に出かけるときに着る服は、制服指定がありがたかったですし、休日などは、誘いがなければ自分から誘うことはなく、連れがいれば、相手が行きたいとこに合わす感じです。自分で決めて行動することが、苦手だったのかもしれません。当時、決断できる唯一の気持ちは、「自分が好き」と言える男性に対しての感情があることぐらいでした。この感情は、私にとって本当に救いの「感情」でした。
誰でもいいわけではなく、それだけは、自分が心から好きと思える人と交際をしていました。今から考えても、本当にこの感情しかなかったと思います。
突然に自身がこうなったわけではありません。
きっとこうなった経緯はあるはずです。実体験も含めお話ししていきます。
不感症とは?それを作り上げる環境
ここで言う「不感症」とは「社会学的不感症」です。何らかの事象に対して、何らかの感情的な反応もわかないことを指します。また、心理学的な面から見ると、様々な 精神疾患 の結果であったり、あるいは 発達障害 の結果であったり、または性格面での問題であったりと、一括りに出来ない要素が多いそうです。
私は、幼いころから人と違う感性をもっていることは、子ども心に分かっていたような気もします。それとは別に、私がこうしたいと母に言えば、いつも返ってくる言葉は、「あぶないからだめ」「本当にできるの?」と否定的な返事ばかりでした。決して私に対して愛情がなかったわけではなく、ただ単に母は、日常生活と育児に疲れていたのです。私を産んだ当時の母37歳、父47歳でした。今の時代では普通に出産適齢期ですが、私の時代は稀でした。私を妊娠中の母は、膨らんでくるお腹を割烹着エプロンを着て隠していたそうです。私が生まれてからは、父に対して「孫を連れてどこにお出かけですか?」と知り合いなどにからかわれては、顔を真っ赤にして激怒する感じだったと聞いた記憶があります。
これは、親の愛情?というのでしょうか。子どもの頃に着る服は、ほぼ母の手作りでした。(私が好きで着たい服ではない)保育園のお弁当も手作りでした。でも、私の好きなおかずは入っておらず、健康面によい物がメインでした。自営をしていたので、両親は土日関係なく仕事をしていました。母は日曜日だけが唯一の休みだったので、趣味の服作りに没頭していました。休みになると、日当たりのよい部屋で、けたたましく走るミシンの音が響いていたのを今でも耳に残っています。当時の母は、服飾関係の仕事に就きたかったようです。今で言うアパレル関係ですね。やりたくもない自営業に付き合わされて、うんざりしていたのでしょう。77歳になった母は今でも言います。「週一日の休みに、あなたたちの服を作るのが唯一の楽しみだった」と。私の兄弟は、私含め三人兄弟です。私はその末っ子です。兄たちも、母に柄シャツを作ってもらって着ている写真を見たことがあります。そうやって幼いころから私は、母が言うものが絶対で、自分の意図することはほとんど無視されて育ったような気がします。しかし、今でもそのことで母に嫌味を言ったり、なじったりすることは全くありません。(軽く笑い話としては言いますが)何故かと言うとそれが、私が選んだ人生の学びだからです。その時は、まだこれが私の人生を変える大きな種になるとは、思ってもいませんでした。
私は、多感な時期に平行して、人付き合いが苦手でした。そう感じるまでは、社交的で誰とでも話せ、行動的でした。それが小学高学年にもなると、人の感情や空気を感じ取ってしまう直感力が冴えわたり、余計に自分を苦しめていくのでした。だからこそ「思考を遮断=気持ちをころす」を繰り返した末、人前での自分とそうでない自分をつくり、少しずつ不感症を築き上げてきたのだと思います。
丁度、私が最初の出産を経験した頃でしょうか。こんな私にも新しい命がやっとの思いで授かりました。しかし、私が人を育てるということに対して不安しかなく、何より親である私が、一番不安定でした。育児書を読んだり、でも、どこか本能的に育児に対して理解していたり、なんとなくですが、泣いている我が子の本意が読み取れたり、でも正解ではない気がしていて、悩んでいました。
ちょうど子どもが3歳になったころ、育児や精神的に不安定な自分にも辟易していたころです。不思議な力をもったヒーラーの方に、セッションをしていただきました。
その方のセッションは、静かな部屋でテーブルと椅子のある席に対面に座り、自身の目を閉じて、その方が誘導する
ことに耳を傾けるだけでいいのです。それだけで、心をクリアにできるでそうで、半信半疑でしたが、自分がなぜこんなにも不安定でいるのか知るためにも、また心の足かせを外したい一心でセッションを受けてみることにしました。
人生初のセッション体験
私はヒーラーに誘導されるがままに、目を閉じて私の両手を、覆いかぶすようにヒーラーの両手で触れられていました。すると、目の前に凄く大きな光が現れ始めます。その光は、ドンドン大きくなり「この光の大きさや見ている感覚を覚えておいてね」とヒーラーに言われ、そのまま場面が変わりました。
「今あなたはどこにいる?」 私「真っ暗い箱のようなところに体操座りしています」
「臭いとかする?」
私「墨の臭いがします。少し湿っているような感じもします。」
「そう。じゃ、その箱から出て外をのぞける?」
私「やってみます。出ました。」
「外はどんな様子?」
私は、恐る恐る窓の外を除きました。
私「おじいさんと子ども3人で楽しそうに縄跳びで遊んでいます。」
「楽しそうだね。じゃ、あなたも、外に出ていこうか?」
私は言われるがままに外に出ました。辺りは森で、子どもたちが遊んでいる姿を横目に森の中を歩いていました。すると、足元に断崖絶壁が現れました。崖の先は真っ暗です。
私「崖になっていてこれ以上先には進めません。」
「そうだね。その崖に飛び込める?怖いよね?でも大丈夫だから勇気を出して飛んでみて!」
私の目の前で起きていることは、頭の中で起こっていることと理解しているのですが、目の前にある、先が見えない崖を見下ろして、とてつもない怖さをいだいていました。見たこともない深い深い崖を目下に、足が震え出します。
これがまた驚くことに、セッションを受けている私の足が本当に震えているのです。その時、ヒールのある靴を履いていたのですが、ヒール部分がテーブルの脚に当たって音が出るくらいブルブルと震えていたのです。
私「無理です。飛べない。」と泣きだします。
「時間はあるから、崖のギリギリ手前まで歩いていける?」
私「はい・・・足が震えてもう立つこともできません。無理です。」
深い崖を目下にしゃがみ込み号泣する私に、もう先に進むことは不可能だと思ったこの方は
「じゃ、飛び込まなくていいから来た道を帰ってみてくれる?」
その言葉に安堵した私は涙を拭きながら、また森の中を歩きだしました。
すると場面が変わったのか、
ベッドで休んで横になり、部屋の窓から外を眺める金色の長い髪をした少女になっている自分がいました。先ほどの森の中をいた私は、着物を着た日本人の幼い女の子だったのですが、次は、年齢も人種も変わっていました。
「何がみえる?」
私「窓とベッドしかない部屋に寝ています」
「あなたは病気なの?」
私「多分そうだと思います。昼間なのにパジャマを着ていますし、外では元気にボールを蹴ってる男の子が見えます」
「あなたは、病気を患っていて、外で元気よく遊べないみたいね。お母さんがあなたをずっと看病してくれているわ」
そう言われると、グーンとその感覚になってきて、「私はお母さんなしでは生きていけない」「お母さんお母さん・・・」と心の中が鬱蒼としてくるのでした
この少女の感覚が、私の心にすり替わり始めたころ自分の心と少女の心が徐々にリンクしていくが瞬間に、時空を超えて地球と言う存在に生まれることや人として存在している感覚が、客観視されて見下ろして見ているようで不思議な感覚で驚きました。そして、ベッド上から外で楽しそうにボールを蹴っている親子を眺めているのでした。
と、ここで場面がまた変わりました。
家々が立ち並ぶ夜更けの道に彷徨い歩いていました。
月明かりだけを頼りに、あてもなく歩いていました。
少し歩くと、セッション最初で見た光が現れ始めました。
気持ちよくて心地よくて、ずっとこの光に包まれていたいと思いながら、溢れんばかりの光を胸の中で抱きしめていました。
「気持ちいいね~。辺りを振り返ってもらえるかな?」
私は振り返ると、小さな光の数が増え始め無数にある光が私を取り囲みはじめました。
「この小さな光は、あなたに助けてほしくて待っている光たちです。そしてあなたが抱きしめている光はあなた自身です。」
すると、星よりも無数に散りばめられた光たちは、一瞬にして光を放つのをやめました。辺りは真っ暗です。光っているのは、自分が抱きしめている光だけです。次第に私が抱いている光も小さくしぼんでいきます。
私「あのぅ!光が小さくなっていきます」
「そう。その光の感覚を覚えておいてね。その光はいつでもあなたの中にあるし、いつでも感じることができるのよ」
光はどんどん小さくなり、私の胸の中に納まり辺りが真っ暗になったところでセッションは終了しました。
そして目を開けて、現実の世界にもどってきました。
泣きすぎて、化粧がはげまくりです。しかも照明が明るいし、顔がボロボロでとても恥ずかしかったのを覚えています。30分くらいの出来事でした。セッション中に見た映像の説明をして下さいました。
セッション中に見た着物を着た女の子と外国人少女は、過去の私自身であることを告げられました。(過去世に行っていた模様)
また、真っ暗い箱の中から外の様子を伺うのは、今の自分であること崖から飛び込めなかったのは、今の心境に勇気が持てない事で飛び込めないでいる状態だったそうです。出来ればあの中で、飛んで欲しかったと言われました。病気を患ってお母さんなしでは生きていけない気持ちが、今の自分にも繋がってしまい、現実世界でもお母さんとの離れが不安や心配に繋がっていると言われました。前者も後者もそれは、過去の自分の出来事であり、今を生きるあなたの事ではないので、もっと勇気をもちなさい。という事でした。
最後に見た小さな光たちは、あなたが過去に助けてきた光たちです。
でもあなたは、助けてあげた光たちから大変ショックな事をされて、深く傷つきました。あれだけ大好きだった人間にさえも、すべてに心を閉ざし、何も信じれるものがなくなりました。孤独になり、あなたは、真っ暗な殻に閉じこもることに決めたようです。リボンさん、もう一度信用してみてはいかがですか?人が信用できませんよね?リアルタイムでもあなたは、現実世界でも境界線を引いて生きています。
今も多くの光があなたの助けを待っているのです。
勿論、助けることも大切ですが、あなたの中にあるあの大きな光を決して忘れてはいけません。あなたが感じようと思えば、いつでもあなたに応えてくれます。因みに今感じてみて?と言われました。 私はどうすればよいのか分からず、先ほど見た感覚を辿りながら、頭と心の中で念じてみました。すると、胸の辺りが、カーっと熱くなり始めてきました。
「胸が熱いです」と言うと、それが反応してくれてるサインです。大事にして下さいね。それから最後に、あなたは不感症傾向にあるかもしれません。
あなたの生きている世界は、先ほど見てきた薄暗い、じめじめした、狭い箱の中ではないはずです。もっと自由に生きていいのです。もっとダンスを踊るようにはしゃいでいいのです。今からです。頑張ってくださいね。
ヒーラーによるセッション、説明は終わりました。
本当は、あの崖を飛び込めば、ミッションクリアだったのでしょう。
やはり、勇気がでなかったです。映像の中の自分は、本当の自分じゃないと理解しているのに飛べないのです。飛び込めなかったことに対して、セッションから数十年も経っている今でも悔やまれます。セッションが終わったら、その感覚が理解できるのに、セッション中はできなかったからです。
また、セッション中に目を閉じて映る画は人によって違うらしく、霊感が強い人ほど映像が良く見えるそうです。私の場合は、筆で描いたようなイラストが自分が行動していることもあれば、自分自身を客観的に見ている時もあり、場面によって見え方は様々でした。
セッション後は、なんとも爽快な気分でした。たくさん泣いたことも、心の掃除になったのだと思います。その時には、淡々と説明を受けたので、うまく咀嚼できなかったところもあるのかもしれません。翌日、また一週間後と日ごとに、セッション中に出てきたシーンを思い浮かべては、時空を超えれたことに感動したり、自分は何者だったのか、今現世を生きている自分は何のために生まれてきたのかと疑問に思うことが、増え始めたことも事実でした。でも、最高値の自分・・・魂の輝きも見れたような気がしたので、やってもらってよかったと思います。
挑戦できる人は9:1の気持ち
私が経験してきて思うのが、今やりたいことを我慢し続けると、挑戦することに億劫になってしまうということです。また、やりたいと思うことに対して「答え」やら「着地点」を想定しないと挑戦できず頭デッカチな人になってしまい、やはり自分にはできないと挑戦を諦めてしまうのです。例えば、好きな人に告白をしようとしていて、結果がNOだったら、立ち直れる自信があるのか、今後その人に対してどういう風に接するべきなのか、もう不安なこと事を上げれば、切りがありません。挑戦して、乗り越えた先の自分は、「キラキラした自分になっているのだ」という創造の気持ちを9割持ってください。そして、着地点が、「もしも・・・」と不安要素で思い固めてしまうことが、1割ほど優先されてしまうくらいで考えましょう。
たとえ、挑戦して結果が伴わなくてもいいのです。そこからが、またあなたのスタートラインであり、学びなのです。悲観せず、周りの目は気にせず、あなたの人生の指揮者はあなた自身であるということに誇りを持ってください。歳を重ねればその分、エネルギーも衰えるので、自然と諦め癖が達者になります。最終的に「やっぱり自分の人生は我慢の連続だったなぁ」と、してこなかった自分に嘘をつき始め、そして慰めるのです。そして、ひたすらに後悔の波が押し寄せてくるのです。それは、全くの誤解です。「我慢」ではなく、できたのに「自分がしてこなかった」だけなのです。または「出来る勇気がなかった」のです。自分の中で、できない理由探しが、勝ってしまっただけのことです。
今すぐに、頭デッカチは卒業して、(できる範囲で)何事も柔軟な心で対応していきましょう。
やりたい事リストでベクトルを合わす
頭デッカチになりすぎると、挑戦する事に対して、頭の中で様々なパターンを想定して、結果をだすことを、組み立て過ぎてしまうのです。その度に、心や脳は疲れてしまい、「めんどくさい」という選択になったり、また新しい情報に感化されては、放置されそのまま忘れてしまうのです。なので私は、やりたい事リストをつくるようにしました。心の中で「あ!いいかも」と思う気持ちになったことを、リストに書き留めます。それをいつでも、目に付くところに貼っておきます。するとベクトルがそちらに合い出し、欲しい情報だったりが、自然に目に飛び込んできたり、拾ったりしだします。
それは、目に付くところに貼っているだけで、見るたびに頭の中にやりたい事が巡るのです。するとあなたの意識がそれに集中しだすのです。もうこうなれば、あなたの心はワクワクで大忙しになります。
片っ端からとりかかる、そして成功してもしなくても、行動に移せたらやったこととしてチェック印をつけていくようにしましょう。またどんな些細な「あ!」でもいいのです。例えば、私は最近庭の草引きに力をいれているのですが、庭が殺風景であることに気づいたのです。また何かを植えれば草引きが減るのかもしれないと思い、新しく植える植物について創造し始めるのです。どういう風な植物がここには適していて、また景観的にどれくらいの高さの植物がいいのかなど、庭を見渡しながら創造するのです。するとピンと来たのが「山野草」でした。リストに山野草と書きました。植えるポイントを想像しながら、山野草についてネットで調べます。すると今度は、現物を見てみたくなるのです。次にグーグルマップで「山野草販売」と打つと、ヒット件数がいくつか上がります。そして現地に向かい植物を手に取ってみたり、オーナーさんに質問したりします。そして、自宅に戻り、買って来た山野草を植えると、ご近所さんに声をかけられ、山野草についてオーナーさんから聞いたことなども絡ませながら、覚えてきたことをそこで会話(アウトプット)します。すると、ご近所さんから褒められ、さらに山野草についてもっと調べてみたくなるのです。
まとめ
いつの間にか、小さな「あ!」だったはずが、自分を中心に大きな波紋になっていっていることに気づくでしょう。同時にあなたの心は、ワクワク楽しく発展していくのです。なので、どんなに些細な「あ!これいいかも」や「あ!やってみたい」を書き留めて置くことをおススメします。そして、それをいつでも目に入れるようにすることも大事です。そうやって自分自身の心の声に、耳を傾けてあげてください。些細な心の声をスルーしないであげて下さい。あなたにしかつくれない波紋を、たくさん育てていきましょう。
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吉濱ツトムさん④才能=楽しい、やる気になるのは間違い
吉濱ツトムさんの才能の発見の仕方は、これで最終話になります。自分にしかない才能を見出す方法をYouTubeにて述べられています。全4話シリーズで私自身とても共感することを話されていて、またそれを体験してみてとても良かったので、自分の思いも織りまぜながらまとめてみました。才能を発見するシリーズは、直ぐに実践できる内容になっていますので、この問題に直面している方がいらっしゃれば、お勧めします。また、これを読んで共感してくださったり、励みや勇気になったと思っていただければ幸いです。
これまでのおさらい
- 才能の特徴を知る
- 初めて取り組んだことにも関わらず何だか妙にうまい
- ソフト(習得の対象事)の吸収が早い
- 吸収したソフト(習得の対象事)を高速で高水準まで伸ばせる
- そのソフト(習得の対象事)を行う様が円潤で美しい
- 才能に対しての誤解を解かなければいけない
- 才能に対して持っている認識(後天的才能がすごいことなのではない)
- 才能の本来の真実(先天的才能)
- 才能があるがゆえに劣等感
- 細かい違いがわかる
- 自分自身のものに対しての問題点がわかる
- そのことに細かく分析できる
- 本当にいいものを良いと認識できる
- 良くも悪くも完璧主義
- 才能があるがゆえに否定する
「①自分にしかない才能を探す」についてはこちら↓
「②才能の価値を見出せない」についてはこちら↓
「③才能があると劣等感を感じてしまう」についてはこちら↓
こちらが今回の最終テーマ動画です↓
才能とワクワクする気持ちは違う
※太文字で書かれている部分は吉濱ツトムさんが述べていらっしゃる部分になります。
「才能が見つかったとしても、つまんない、あるいは無気力ですか?」世間一般のこたえとしては「むしろ才能が見つかったことによって自動的に走る、もしくは情熱を持って動くことができる」というのが大半ですよね。でも、それは間違いであるということ。確かに苦手なもの興味がないことをやるにはやる気だとか、楽しさっていうものがあるんだけども、そんな爆発的なものではないということ。理由として4つあって、1つ目は「才能があることであったとしても、仕事になるとそんなに楽しくなくなる」例えばプロ野球選手、彼らはとても楽しくやれているかというと決してそうじゃない。純粋に楽しくやっている人なんていうのはほとんどいない。実力は上がるが楽しくない。要因は多岐にわたるんだけれども一つとしては、仕事になると命をかけてやらないといけない。遊びでゲームをやっているんだったならば、楽しいじゃないですか。でもそれが、eスポーツみたいにそれで飯を食わなきゃいけない。あの人たち楽しいかっていうと決してそうじゃない。また趣味で文章を書いているのと、この文章を書かないと飯が食べれない、家賃が払えないとなると楽しいかというと楽しくない。超越したならそういったことを無視できるんだろうけども、あるいは結果を気にしないでやれるんだろうけども、人間っていうのは、どうしてもそこまで無視できない。要は生き残りがかかった瞬間に楽しくなくなっちゃうということ。仕事になることによって、急に楽しさが半減してしまうということがある。仕事になると、生き残りがかかっちゃうから楽しくなくなっちゃう。「才能とワクワクは違うということ」さっきの才能の特徴として、僕は独自固有の先天的長所ってよんで「初めて取り組んだことにも関わらず何だか妙にうまい」「ソフト(習得の対象事)の吸収が早い」「吸収したソフト(習得の対象事)を高速で高水準まで伸ばせる」「そのソフト(習得の対象事)を行う様が円潤で美しい」+(ワクワクって何ですか?というとそれに加えて)「いくら取り組んでも疲れない、疲れづらい」もしくは「疲れてとしても心地よさがある」ということ。2つ目としては、「途中過程に喜びを見出せる」ということ。3つ目「意識していないのにも関わらず、それに対して肯定的に積極的にあれこれ良くしようと考えなくても、ただアイディアが沸いてくる」ということ。4つ目「それに取り込んでいる最中に無条件に喜びだとか安心だとか、肯定的な感情が沸いてくる」こと。
- 才能の特徴を知る(独自固有の先天的長所)
- 初めて取り組んだことにも関わらず何だか妙にうまい
- ソフト(習得の対象事)の吸収が早い
- 吸収したソフト(習得の対象事)を高速で高水準まで伸ばせる
- そのソフト(習得の対象事)を行う様が円潤で美しい
+
- 才能の最終形態にあるワクワク
- 「いくら取り組んでも疲れない、疲れづらい」
- 「途中過程に喜びを見出せる」
- 「意識していないのにも関わらず、それに対して肯定的に積極的にあれこれ良くしようと考えなくても、ただアイディアが沸いてくる」
- 「それに取り込んでいる最中に無条件に喜びだとか安心だとか、肯定的な感情が沸いてくる」
確かに、こういう話は聞いたことがあります。好きな事をやっているはずなのに、自分が置かれている環境等の理由、利益(金銭的)のことを考えると途端にモチベーションが下がると・・・。私の体験においては、当時アロマサロンをしていたことです。他の人の体を癒すことができることは、とても好きで、価格にも拘ることなく低価格で提供していました。体力的には堪えますし、準備の時間と細かな配慮、丁寧さを必要とするお仕事でしたが、いつも程よい緊張感と充足感があり満たされるような感覚がありました。施術の準備をしている段階から、施術が終わるまでは、クラシック音楽を奏でているような感覚で事にあたっていました。しかし、家に帰るといつも「お金にならないよね」「価格設定もっとよく考えたら?」「まだ子どもが小さいし育児はそっちのけでいいの?」と、親や夫から散々言われていました。それも自営の経験がない人たちにです。でもその言葉が、自分でもどこかで思い当たる節もあったのでしょう。重くのしかかり、自分の中にあった才能とやる気のバランスを崩しはじめ、またそれと同時に、好きな事だけやって簡単に稼ぐということが、どれほど難しいことか、嫌という程味わいました。今あの時のことを全て理解した上で、再度アロマサロンを始動できるかと言われると、あの時のモチベーションが沸いてこないのです。情熱が見出せないのです。ただの趣味になってしまったのです。しいて言うならあの時に、親や夫に言い返すぐらいのメンタルがあればよかったのになって思います。やはり人生においては、才能の旬というものがあるのでしょうか。なので、これを読んでいる方の中で、今迷っている才能があるなら、旬が過ぎないうちに可能な範囲で開花させてほしいです。
才能を十分やり切った後に、初めてワクワクになる
これがワクワクなんだけども、このワクワクにいきなり飛び込めるかというと、大半の人は飛び込めない。というのは、例えば中核のワクワクがあったならば、いきなりそこを発見じゃなくて、糸にビーズを通すような形で小さいワクワクをこなしたら、次のワクワクがみつかって、更に次のワクワク、次、次、次、・・・・結果としてこの(中核)ワクワクになるということ。ということは、この中核の巨大なビーズのワクワクと、一番最初の小さなビーズのワクワクは、楽しさで比べたならば、こっち(一番最初のビーズ)は、ほんと小さいもの。巨象と蟻みたいなもんであるということ。だからこの小さなワクワクだとあんまり動くことができない。やる気にならないじゃないですか。実はこの才能っていうのは、一番最初のビーズに当たるということ。もちろん、相当離れた所じゃなくて、(中核から一番最初のビーズまでの距離)ここら辺にあるだろうけども。でも、残念ながらワクワクの途中過程に過ぎないということ。だから才能を見つけたとしても、やる気だとかワクワクだとか情熱そのものになるかというと決してそうではない。もちろん、才能を見つけたらいきなりどんぴしゃりのワクワク(中核)に行く人もいるんだけども、実はあくまでも「その才能っていうのは途中過程で、その才能を十分やり切った後に、初めてワクワクになることが多いということ。だから決して「才能=ワクワクだとかやる気、情熱」ではないということ。↓中核=㊥↓
才能≠ワクワクだとかやる気、情熱
〇〇〇〇〇・・・・・㊥
―――――――→㊥=ワクワク
途中過程で、その才能を十分やり切った後に初めてワクワクになる
楽しさの中にも恐怖心は存在する
仮にその才能が結構ワクワクとかぶっている、あるいは近かったとしても、否定的な感情が強いとそれが楽しめないということ。やはり人間の特徴って恐怖心ってのは極めて強い。その恐怖心が強いと、楽しさっていうのはかき消されちゃう。例えば、友達とビールを飲むことがワイワイガヤガヤやるのが好きであると、だけれども会社が倒産しちゃった、あるいは家賃さえ払えないって時に、これを楽しめるかっていう。楽しいことをやったとしても、人間というのは常にこっちに恐怖心がちらついてしまうということ。だから結果、「楽しむ、やる気」だとかっていうのを駆逐してしまうということ。もちろんどんぴしゃりのワクワク(中核)にはまり込んだならば、そういった恐怖心ですらも一掃できるんだけども、でも残念ながら強い喜びを見出せるわけじゃない。結果、恐怖心だとかあるいは普段の悩みだとか、あるいは反すう、否定的な思考をグルグル巡らしちゃう、っていうことに飲み込まれて、別にやる気だとか、楽しさだとか、情熱っていうのを感じられなくなりますよねっていう話であるということ。
「才能=楽しくない」は間違い「才能=苦手な分野よりは負荷がかからない」
才能があったとしても、自分から動くかというと決してそうではない。才能があったとしても実は嫌々やる。もしくはそんなに気乗りしない人が多いということ。言い換えると「才能=楽しくない、やる気がない」っていうのは間違いで、「苦手な分野、興味のない分野をやるよりはストレスがそんないかかりません。そんなにしんどくありません」っていうのが実態であるということ。だが世間一般では「才能=ワクワク、やる気になる、情熱がでる」っていう認識を持っているから、青い鳥症候群が山ほどいるということ。だからまず、そこの誤解を解かない限りは、才能を発見すること、あるいは、才能の最終的な形態であるワクワクを見出すことはできないですよっていう話になる。
才能=楽しくない、やる気がない
ではない‼
才能=苦手な分野よりはストレスがそんなにかかりません
※ここを理解した上で
↓↓↓
才能の先にあるワクワクを見出せる
まとめ
才能とワクワクする気持ちは違うということ、まず人は好きなことや得意分野を仕事のカテゴリにするから、生き残りやお金のためにという思いが溢れてしまう、でも働いて報酬を得るということが、社会の構造だからここは崩せない現実です。人は生活していくうえで、いや生きていくうえで、コミュニティー(家族・学校・職場等)に所属して、働いてお金を得ます。この世にお金というものが存在していなければ、人が生きていくうえでの学びの意味は、また違うものになっていたと思います。もし自分がお金の為ではなく働くという概念でもなく、ただ好きなことに熱中できる世界に生まれていたのならば、どうなっていたのだろうか。人としての進歩はあったのだろうか、争いは愚か「争い」という言葉自体生まれてこなかったのではないだろうか、お金からうまれる利害によって人は翻弄されているように思います。各言う私もその一人です。社会の構造として、2018年副業元年とも言われていましたが、現状はどうでしょうか。大幅に就業規則が変わることは難しいかもしれませんが、少しずつではありますが、変化はしていっていると思います。社会も変わりつつある中で、うまく自分の才能が発見でき、その後においての生き方があなたらしく創造できますように。
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吉濱ツトムさん③才能があると劣等感を感じてしまう
吉濱ツトムさんがYouTubeにて自分にしかない才能を発見する方法を述べられています。全4シリーズで私自身とても共感することを話されていて、それを体験してみてとても良かったので、自分の思いも織りまぜながらまとめてみました。直ぐに実践できる内容になっていますので、この問題に直面している方がいらっしゃれば、お勧めします。また、これを読んで共感してくださったり、励みや勇気になったと思っていただければ幸いです。
これまでのおさらい
- 才能の特徴を知る
- 才能に対しての誤解を解かなければいけない
- 才能に対して持っている認識
- 才能の本来の真実
「①自分にしかない才能を探す」についてはこちら↓
「②才能の価値を見出せない」についてはこちら↓
こちらが今回のテーマ動画です↓
才能があるがゆえに劣等感
※太文字で書いている部分は吉濱ツトムさんが述べていらっしゃる部分になります。
才能があるがゆえに、劣等感を感じてしまうっていう理解を忘れてはいけないということ。例えば、世間一般で「得意なこと=自信がある」という理解ですよね。「得意なことだから、自信がなくなる」という文脈としても無茶苦茶だよね。やはり「得意なことだから自信がある」あるいは、自己肯定感が出る。世間一般的な認識ではそうですよね。でも、残念ながら実際はその逆で「得意なものほど、強い劣等感を感じてしまう」ということ。なぜかと言うと多岐にわたるが、代表的なものとしては細かい違いを見出してしまうことができる。あるいは、自分自身がつくったものに対しての問題点を見出すことができるということ。要は才能のある分野においては細かく分析できるということ。さらには本当にいいものを良いと認識できるということ。
才能があるがゆえに劣等感を感じる主な理由
- 細かい違いがわかる
- 自分自身のものに対しての問題点がわかる
- そのことに細かく分析できる
- 本当にいいものを良いと認識できる
いくら才能のある分野であったとしても、(例 絵画)やっぱり駆け出しの頃の作品としては、まだまだであるということ。当然周りに比べれば随分うまい。うまいんだけども、超一流と比べれば当然そこまでうまくない。そこで問題なのは、絵の才能がある場合っていうのは、超一流の絵の凄さっていうものがわかる。例えば、絵の才能が全くないから、正直ピカソの絵を見ても何がいいのかわからない。それに対して「いや俺ダメすぎる」っていうのがわからない。だけれども、絵の才能がある人は一流どころの凄さっていうのがよくわかる。だから結果として、才能があるといっても、まだまだであるということ。そして一流どころの絵を見たならば「俺とこの人の絵、雲泥の差がある」っていうことで愕然としてしまう。愕然としてしまって「俺はこんな絵しか描けないのか」っていうことで強い劣等感を感じて、絵を否定しちゃう可能性もあるということ。
私も歌うことが好きで、よくカラオケに行っていたのですが、うまい人の歌声を聴くと自分の声がでなくなることがあります。歌えなくなります。そして、凄い自己嫌悪に陥ります。また頑張って腹筋を鍛えたりし始めます。その時きまって、「私歌じゃないんだな」って思ってきました。または、「音色に正解はないし、私の個性だけを大事にしよう」って鼓舞してきたようにも思います。そんな若い時の思い出を頭の片隅におきながら、この歳になってからは、自分が歌いたいときにだけ歌うようにしています。でも、お付き合いでカラオケなどに行くときがあります。その時に「今度うちのライブの時に声かけてもいい?」と誘って頂くことがあります。凄く光栄な事なのに、劣等感の塊が邪魔をして生返事をしてしまう自分がいます。一つのチャンスをなくした瞬間でもあります。私はここ(=唄う人)じゃないって否定してまうのです。しかし、ここは残念に思うところではなく、劣等感に感じている。つまりこれは、自分の才能なのだと喜ぶべきです。そしてそこを深める努力に変えた方が早いのかもしれません。
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吉濱ツトムさん②才能の価値を見出せない
前回に引き続き、吉濱ツトムさんの「なぜ才能の価値を見出せないのか」については、今回も共感することを話されていて、それを体験してみるてとても良かったので、自分の思いも織りまぜながらまとめてみました。直ぐに実践できる内容になっていますので、この問題に直面している方がいらっしゃれば、お勧めします。また、これを読んで共感してくださったり、励みや勇気になったと思っていただければ幸いです。
※太文字で書いている部分は吉濱ツトムさんが述べていらっしゃる部分になります。
前回のおさらいは才能を発見するには二つの方法があるという事
- 才能の特徴を知る
- 才能に対しての誤解を解かなければいけない
「①才能の発見の仕方」についてはこちらから↓
こちらが今回のテーマ動画です↓
また、吉濱ツトムさんの師匠でもある精神科医の西脇さんは、写真記憶ができるので映画を見終わった後でも目を閉じて頭の中でもう一度、映画を再生できるそうです。西脇さんは、誰もが出来ると思っていた。しかし学生時代の時に、自分にしかない能力であるということに気づくと話されていました。
才能の本来の真実
天然の超能力者は、誰もがそんなもん持っているものだと思っていた。ある日、第三者から指摘されて「それ特別なんだよ」と言われて、はじめて特殊能力だということに気づく。他にも絶対音感や大量にばら撒いたおじゃみの数が一瞬で分かるアスペルガーの人もいる。特殊なものであるにもかかわらず、特別なもの、特殊なもの、価値が見出せない。ということは、それ以外の一般的な才能、例えば、「聞き上手」や「人前で発表するのが得意」、「絵が上手く描ける」だとか、そういったことに対しては、価値を見出すことが難しくなってくる。でも世間一般においては、才能は価値を見出せるものという認識がある。価値を見出せるもしくは、周りの人は同じ分野の力を持っている人は少ないということが分からないから、その才能を否定してしまって、青い鳥症候群で遠くに見つけに行く。
聞いていて思ったのが、「特殊能力」と「一般的な才能」それを比べてしまうからこそ、余計に自分の才能に気づけなくなるのではないかと思います。特殊能力は、誰にでもそなわっているものではないからこそ、周りから特別視されてしまいます。一般的な才能は、大半の人にそなわっていて特別視されるわけではないが、価値あるものです。でもそこを比較する必要はないのです。冷静に自分自身の才能に耳を傾ければさえ、あとはそこを深めていくだけのことだと理解しました。本当にシンプルなことだと思まいます。複雑に考えて迷走していた自分が恥ずかしいです。
才能があるということ、例えば工作やアクセサリ作りも本当は価値があって、他の人が出来ないにもかかわらず、今の認識(才能の本来の真実)がなければ、そんなもの誰だってできるし、単純にやってないだけだから。自分にはこんな工作の才能があるわけないじゃんっていうことで、それを否定してしまって、苦手なものに突っ込んでしまうといこともある。なので、才能の誤解を解かなければ、才能の発見は出来ませんよっていう話になるということ。だから、その能力の誤解を解く一つとして「価値が見出せない」っていうことがあげられてしまう。
まとめ
以上で動画は終了です。次回へ進みます。
頭では理解できていても、今まで歩んできた人生において、考え方の癖が染みついてしまっていて、理解が行動にうつせるか難しいところではあると思います。少しずつでもいいから、自分の才能の特徴を探し、その強みを伸展させていけばいいでしょう。なんだかワクワクしてきました。
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吉濱ツトムさん①自分にしかない才能を探す(全4シリーズ)
今回ご紹介する方は、吉濱ツトムさんです。ご存じの方もおられることでしょう。また直接セッションを受けられた方もおられるかもしれません。私は吉濱ツトムさんをYouTubeで初めて知りました。吉濱ツトムさんは、お話し中瞬きの少ない方で、とても早口だけれでも、内容が聞きやすくて講義を受けているような感覚に陥りました。そして最近では、吉濱ツトムさんの相方さんでよいのでしょうか。佐々木さんもYouTubeでご一緒されています。佐々木さんの目はとてもきれいで純度が高いなという印象です。吉濱ツトムさんにきつくツッコまれても、ニコニコ笑顔で進行をされています。ご存知でない方のためにも吉濱ツトムさんのプロフィールをご紹介します。発達障害カウンセラー。幼い頃より自閉症、アスペルガーの症状に悩まされる。発達障害の知識の習得に取り組み、あらゆる改善法を研究し、試した結果、数年で典型的な症状が半減。26歳で社会復帰。同じ症状に悩む人たちが口コミで相談に訪れるようになる。個人セッションの他、教育、医療、企業、NPO、公的機関から相談を受けている。
Twitterから引用
吉濱ツトムさん (@yoshihama_t) / Twitter
このような事をされている吉濱ツトムさんが、とても共感することを話されていて、それを体験してみてとても良かったので、自分の思いも織りまぜながらまとめてみました。直ぐに実践できる内容になっていますので、この問題に直面している方がいらっしゃれば、お勧めします。また、これを読んで共感してくださったり、励みや勇気になったと思っていただければ幸いです。
こちらがその動画です↓
自分の才能を発見するにあたり、最初の注意点
※太文字で書いている部分は吉濱ツトムさんが述べていらっしゃる部分になります。
- ワクワク
- 才能
- 使命・役割を見つける、それを果たすこと
これが出来ないと、アセンションが出来ないと強迫観念に駆られる人が多くいる。しかし、吉濱ツトムさん曰く、それは間違いであると言われています。なぜなら、役割・使命はそれぞれが持っているのかもしれないが、それが見いだせなくても「生きている」という事だけで社会貢献、アセンション加速に貢献していることがあるので、上記の3つが見つけられなかったことに対して、自己嫌悪になる必要もないし、焦る必要もないということがまず大前提であると言われています。また、これとは矛盾するが、スターチルドレンや新人類、宇宙人の魂を持つ人たちは、基本的に才能を発見した方が良いということです。ここで言う「才能」とは、魂に刻まれたもので、その人の「強み」あるいは、スピリチュアルの中でのワクワクに繋がっていくのかもしれませんとも言われています。
人は、「才能」というものが直ぐにわかれば、この世を生きていくことが、楽なのかもしれません。自分のやりたいことがはっきりしていて、そのことに情熱を持ち続けることができれば、素敵な人生が送れるのだろうとも考えていました。私も以前、この3つの中で「使命・役割」について、悩み過ぎてしまい、人生を立ち止まってしまったことがありました。そのことが頭から離れず、しだいに焦りが募り、「早く結果を出さねば」「何やっているんだ私」「何か資格をとるべきでは・・・」という思いで10年迷走し続けました。表面的な私が涙するというよりは、魂が涙してしまうほどに深い深い闇に落ちていました。動画の中でも話されていますが、青い鳥症候群10年選手です。おかげさまで、その時はある方のおかげで救い上げて頂き、無事に現生を歩くことが出来ています。また、私は自分という人間が生きているだけでアセンションに貢献できていると実感したことはありませんが、(そもそも実感などできないことなのかもしれません)我が子にとって私という人間は、必要なのかな?ぐらいには思っています。自分の血を分けた人間なのですから。
なぜ「才能」を発揮した方がいいのかという理由
では、スターチルドレンや新人類、宇宙人の魂を持つ人たちは、どうして「才能」を発揮した方がいいのかと言う吉濱ツトムさんの理由をまとめてみました。
①スターチルドレン達は、生きられる環境が極めて少ない
適応できる環境ではないと、直ぐに地獄を見やすい(=落ち込む)からだそうです。スターチルドレンは、波動が高く、意識が純粋だが、社会においては繊細なところがある。なので、自分の得意分野以外での仕事をしてしまうと無条件に異常なストレスを感じてしまう。またミスを乱発してしまう。結果、心が折れてしまい、元々持っている劣等感が加速してしまうのだと話されています。
もう、まさにです!私は共感のオンパレードでした。(私自身スターチルドレンなのかは定かではないですが)仕事の度に無条件にストレスがかかり、結果体が動かなくなります。なので、これまで辞めた仕事の数は、数十社以上です。もう履歴書1枚には収まりません。入社前は、この職種だったら自分でもこなせるだろうと思っては、面接を受けて合格するのですが、なぜか辞めてしまうことになります。無条件にと言うところが曲者で、誰かに胸の内を相談しようとは思うのですが中々うまく表現できず、結局ため込み、無理越しに出社して最終的に体を壊す、そして希望退職という流れになってしまいます。そして「また辞めてしまった」「また出来なかった」と自分を責め続け、劣等感が爆速し始めます。
②スターチルドレン達は、同時に嫌なことを反すうしやすい
否定的な事を延々と考えてしまうので、それが想念として飛んでしまう。幽界や冥界のエネルギーが消滅中にも関わらず、それを妨げてしまう。
これもまさに自分のことを言われている感じでした。脈絡もなくネガティブなことが思いつき、そのことばかりが頭の中を占拠してしまいます。ネガティブオーシャンへ突入し、発作的に独り言が始まり(独語)ます。言霊はそのまま自分に返ると言われている通り、独語の言霊しかもネガティブ。常にこの状態なので、現実に巡ってくる現実もまたネガティブな現実が繰り返されるということになるのでしょう。これでは、悪連鎖です。
③スターチルドレン達は、社会に与える影響が極めて大きい
スターチルドレンが、才能を発揮すると、それが社会に対して与える影響が極めて大きい。ここで大切なのが、スターチルドレンが立派で、そうでない人がダメではない。そして選民意識でもない。しかし、スターチルドレンが才能を発揮すると、一般の人達(スターチルドレンではない人達)は、極めて肯定的な大きい影響を受ける。結果、意識が変わり→想念も変わり→幽界・冥界のエネルギーの消滅に拍車がかかる。例えば、僕が(吉濱ツトムさん)がスターチルドレンで音楽家であったならば、それを聞いた人は、意識や思考状態などが大幅に変わっていく、すると想念としていい影響がでるでしょう。と話されています。
たとえ話でピンときた方もおられるのではないでしょうか。私も若い頃は、落ち込むときまって音楽を聴いていました。心に沁みるような曲を聞いては、奮起したり、そうだよね私よりもっと辛い人も頑張ってると感じると、沈んでいた意識が変わる体験を何度もしてきました。音楽以外にも、映画や読書、絵画を見たり、写真を撮ったり、自然に身をおく、などでも同様の変化が生まれます。ここで話されている、意識と想念そして幽界・冥界のエネルギーについては、私自身、勉強不足ですが納得している自分もいます。それぞれの意識が総合集合体になり、天=神に帰るといったような感覚は以前からありました。神以下はみな同列であり、同列内で上下の区別はあってはならいのだと思っています。ただ誰かの都合で、人間世界に上下関係ができあがり、つまりピラミッドの構図が出来上がっているのかなと理解しています。
独自固有の先天的長所を見つける
ここで問題になるのが「才能」とは?大半の人の課題になっており、自分探しの旅に入ってしまう。どうすれば「才能」を発見できるのか。方法は多岐にわたるが、その一つを吉濱ツトムさんは教えてくださいました。それは才能の特徴を知って、それを自分が生まれてから現在に当てはめてみる。そのことを「独自固有の先天的長所」と言われています。またこれは、魂に刻まれた才能の特徴だそうです。特徴は4つあります。
- 初めて取り組んだことにも関わらず何だか妙にうまい
- ソフト(習得の対象事)の吸収が早い
- 吸収したソフト(習得の対象事)を高速で高水準まで伸ばせる
- そのソフト(習得の対象事)を行う様が円潤で美しい
これらが該当していて、自分の中に発見をするって難しいと感じてしまったのではないでしょうか。私も、よく考えてみると4つ目の項目がどうも当てはまらないような気もします。これは、他人からの好評価でいいのであれば、思いつきます。例えば、事務仕事の最中にポップを作ってと上司に言われので、胡坐をかいて没頭していると「なんか本当に絵描きさんみたいね」と、同僚から言われたことがあります。思わず「はっ」した自分の姿に恥ずかしくなったのを思い出しました。そのポップはお客さんからも評判が良く「絵の勉強とかしてたの?」と言われたことがありました。また、老人施設に勤務している時には、入浴介助中の洗髪をしていると同僚から「え?美容師もしてたの?見てて流れるようで気持ちいい」と言われたことがあります。また、会食の席で仕事とは無関係の方のお話を聞きながらも食事をしていると、その場にいた友人から「本当に人の話を聞くのが上手よね。仕事でもないのに、しかもお酒も入ってるのに…尊敬する」と言われたことがあります。これらが4つ目に該当するならこれらが私の独自固有の先天的長所なのかもしれません。
また吉濱ツトムさんは、こうも言われています。4,5歳~学生時代~20代後半頃の自分の過去を思い出して、それに当てはめていけばいいだけ。独自固有の先天的長所は直接的、間接的にやっているはずだ。例えば、「英語が得意だったな」や「人の話を聞くのが得意だった」など出てくればこれが才能なのでそれを突き進めていくだけ。また才能に対して誤解もあるのでそれを解くこと。そんなものは才能じゃないと勘違いして否定してしまい、また自分探しに入ってしまう。なので才能に対しての誤解を解くことが大切。この話は次回へ続く。
才能を探すにあたっての注意点
では、紙とペンを持って過去を思い出し書き出してということは難しく、また不可能なので、第三者や外の環境からの刺激がある事によってはじめて記憶が引きだされる。詳しく言うと幼少から学生時代までの資料、通知表を見たり、実家や自分の部屋などへ行く。可能であれば、家族や友人知人に対して当時の自分の性格・行動を聞いてみるといい。魂の記憶だから才能と自覚しない事でも、特徴的な行動として魂の記憶には残っている。才能に合致した記憶を思い出せるのだと吉濱ツトムさんは言われています。
確かに紙とペンを持って書き出せることって、わずかな記憶なのかもしれません。また私のように過去の資料がない人もいるのではないでしょうか。私はへその緒すら残っていません。アルバムもありません。と言うことは、実家の青春時代を過ごしたマイルームへ足を運ぶか、家族や友人に頼るしかないです。私にとって過去を思い出すことは苦痛なことでもあります。でも、楽しい思い出から一つ一つ思い出し、それを繋げて記憶を張り巡らせていけば結構な量で書きだせました。例えば、私が6歳の頃、親に怒られたことを思い出しました。なぜだったか記憶の映像をなぞると、小学二年生でやる算数の「時計の針はいくら進んだ」という問題が理解できなかったらです。今でもあの当時の気持ちを覚えています。私の父と母は必死に13時から10分後に長針を合わせては「何分進んだ?」と私に尋ねるのですが、二人の波動がきつ過ぎて全く言われたことが咀嚼できないのです。私が「2」と答えると「だから2ではなく・・・」と永遠に時計の針が10分進んだことを説明しだします。二人(波動)間に挟まれて酔ってしまった私は、頭がクラクラします。こんな過去の一部分もあったなと笑ってしまいます。
こうすることで、自分が見えてくるという事。自分探しに高いセミナーや海外にお金をかけなくてもいいということ。海外へ行くなというわけではなく、お金も体力も自分の才能は見つけらるよ。ただこれをするにあたって悲しい面、嬉しい面とあり、嬉しい面はスターチルドレンは得意不得意、適応できる環境とそうでない環境ときれいに分かれているという事。なので才能を極めて見出しやすいということ。
まとめ
以上で動画は終了です。次回へ進みます。
お金も道具もなく、ただ過去を探るだけで自分探しができることがとても深く素晴らしい気づきであると思いました。また、自分自身のことについて全ては内にあり、外には答えはないのだと改めて考えさせられました。全ては自分の中にあるのです。内観をして明るい未来に繋げていきましょう。
最後までお読み頂きありがとうございます♡
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